世界の終末がやって来ました。とはいっても、地球が大災害に見舞われて破壊されるということではなく、善きにつけ悪しきにつけ活動を行ってきたものの、もうその役目を果たし終えた、教会世界の終末が訪れたということです。その活動とは、創造者たちが再来した時に、彼らが創造者たちなのだと分かってもらうようにするための、教会の普及活動のことです。
あなたもお気づきのように、キリスト教の教会はもはや死につつあります。教会世界の終末なのです。というのは、その使命が完了したからです。教会は、あまりにも長い間、創造者たちを神として崇めるといった、多くの過ちを犯してきました。
これは、科学文明が到来するまではそれでも良かったのですが、科学文明の時代に本当の真実が保持され、聖書の言葉の本当の意味を正しく読み取るためには、思考の急激な方向転換が為されるべきだったのです。にも関わらず、教会はあまりにも数多くの過ちを犯してきたのです。
もっとも、これは創造者たちが予測していたことであり、もはや何の役にも立たなくなった教会は滅びてしまうでしょう。
すでに、科学的に発達した国々の人々は、何事にも信を置かずに気難しくなっています。彼らは、あまねく存在して雲の高みに住んでいる、白いヒゲの生えた「天の神」をもはや信じてはいません。愛らしい小さな守護天使や、角を生やして蹄を持つ悪魔についても同様です。
人々は何を信じていいのか分からなくなっています。青年たちの一部だけが、愛こそが何よりも大事だということを理解しています。あなたがたは、黄金時代に到達したのです。
地球の人々よ、あなたがたは天空を飛び回り、電波を利用して地球の隅々にまで声を届かせています。あなたがたが真実を知る時が来たのです。
すでに書き留められているように、今や地球は水瓶座の時代に入ったので、あらゆる出来事が現在は起こっています。すでにこのことを記述した人も何人かいたのですが、人々を信じさせる迄には至りませんでした。創造者たちが地球で活動を開始しようと決心したのは、今から 2 万2000年前のことでした。すべては計画されていたのです。というのも、銀河系の運動はこの知識を暗示しているからです。魚座の時代は、キリストとその漁師たちの時代でした。そして、それに続く水瓶座の時代が1946年に到来しました。これは、イスラエルの民が自分たちの国を再び見いだした紀元です。
その日には、魚の門から、叫び声が騒がしく起こり、……。『ゼパニヤ書』1章10節
魚の門というのは、水瓶座の時代に至る経路です。それは春分の日に、地上から昇る太陽の位置が水瓶座に入る瞬間です。騒がしく叫ぶ声というのは、この真実の啓示に伴って聞こえてくる喧噪です。
あなたが1946年に生まれたのは、決して偶然ではありません。
この真実の啓示は、その啓けいはつ発によって、不機嫌になっている人たちに新しい希望と幸福をもたらすでしょう。しかし、この真実の啓示はまた、教会が自らの過ちを反省して真実に奉仕しなければ、その没落を早めることにもなるでしょう。
荒ぶる者は絶え、嘲る者は失せ、悪を行おうと折を伺う者は、悉く断ち滅ぼされるからである。彼らは、言葉によって人を罪に定め、町の門で諌める者を罠に陥れ、虚しい言葉を構えて、正しい者を退ける。『イザヤ書』29章20・21節
原罪を信じ込ませ、人に罪の意識を植え付けた者たちの終末です。魚座が終わり、水瓶座の入口において真実を広めようとする人を、罠に陥れようとする者たちの終末です。教会が従来通りのままで在り続けるようにと、正しい人たちや、真実を書き留めたり語ったりする人たちのすべてを、退けようとする者たちの終末です。
それは、魚座の時代への移行の際に、自分たちが滅ぼされ破壊されるのではないかと恐れ、訳も分からずに、ただ正しいことを守るためだと信じ込んで、キリストを十字架にかけた人々のようなものです。

こうして、見る者の目は開かれ、聞く者の耳はよく聞き、……愚かな者はもはや、尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、立派な人と言われることはない。それは、愚かな者は愚かなことを語り、その心は不義を企み、邪なことを行い、ヤーウェについて誤ったことを語り、飢えた者の望みを満たさず、渇いた者の飲み物を奪い取るからである。悪人の行いは悪い。彼は悪い謀りごとを巡らし、偽りの言葉をもって貧しい者を陥れ、乏しい者が正しいことを語っても、なおこれを陥れる。しかし、尊い人は尊いことを語り、常に尊いことを行う。『イザヤ書』32章3〜8節
こうして、「見る者の目が開かれ」れば、すべての人が理解することでしょう。教会は、ヤーウェについて誤ったことを語るので、真実に飢えた人の心を満たしてはいません。教会は謀略を巡らして貧しい人を陥れ、罪とか破門、その他のくだらないことで脅かして、理解できない人や、あえて理解しようとしない人に忠誠を誓わせようとしています。貧しい人が正しいことを申し立てているにも関わらず、真実を把握できるだけの知性を持たない人々は教会の言いなりになって、教会の虚偽の教えを支持しています。しかし尊い人や、真実を大声で叫ぶ人は、人類に苦悶を与える教会の同意が得られなくても、尊い行為を志す人です。
あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。始めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。『イザヤ書』40章21節
私の支持する我が僕、私の喜ぶ我が選び人を見よ。私は、我が霊を彼に与えた。彼は、諸々の国人に道を示す。『イザヤ書』42章1節
あなたは、世界の隅々まで、真実を広めるべき人であり、この真実とは、これまでの数日間にあなたに解き明かしたものです。
彼は、傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、……。『イザヤ書』42章3節
あなたは、教会とその虚偽を完全に滅ぼすことはできないでしょう。でも、教会はいずれ独りでに消滅していくことでしょう。そして、その消滅は、少し前からもう既に始まっています。正に「ほの暗い灯心」です。
教会は使命を終えたので、もはや消え去る時です。教会は数々の過
ちを犯し、その上、真実におぶさってあまりにも裕福になったので、今の時代の人々が納得できるような、明解な解釈を追究しようとはしていません。しかし、あまり責めてはいけません。真実の証言である聖書が世界中に広まったのは、教会のお陰なのですから。
とはいっても、教会は大きな過ちを犯しています。特にひどい過ちは、真実をあまりにも超自然的なものにしてしまったことと、「聖書の記述」を間違って翻訳したことです。創造者たちを示す「エロヒム」という言葉を、単数形の「神」に取り換えるという解釈の過ちを犯したのです。「エロヒム」とは、ヘブライ語の「エロハ」の複数形なのに。
こうして教会は、創造者たちを、単数の不可解な「神」に置き換えてしまいました。もう一つの過ちは、イエス・キリストの思い出のよすがとして、木で作った十字架を民衆に崇めさせてきたことです。十字架はキリストではありません。十字の形をした木片には何の意味もありません。
その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、「私はその半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを作るのか。木の端くれの前にひれ伏すのか」と言う者もない。『イザヤ書』44章19節
コメント